明智光秀が歴史上の舞台に登場し活躍した時代は、長らく続いた戦国の世が、天下統一へ向かう激動の時であり、丹波地方もその影響を受け大きく変貌を遂げようとしていました。激変する社会の渦中で、光秀は足利義昭・織田信長に仕え、次第に頭角をあらわし信長の有力家臣となりました。
天正3年(1575)、丹波平定を開始した明智光秀は、丹波亀山城主として、城と城下町の基礎を築きました。亀山の地名は、丹波進攻の拠点として光秀が整備する様子を伝える史料の中で、初めて確認されます。光秀による亀山城の築城は、近世亀山の発展の基礎となり、現在における亀岡のまちづくりのルーツでもあります。
一方、後の「本能寺の変」・「山崎の合戦」の中心人物として、「逆臣」「三日天下」などのマイナスイメージを強く持たれる傾向がありましたが、戦国武将として異色といえるほど、茶の湯や連歌・和歌についても深い教養を持つ人でもあり、近年光秀に対する評価が見直されています。
この絵は、明智光秀を描いた唯一の肖像画です。侍烏帽子(えぼし)をかぶり、雪笹模様の小袖の上から直垂(ひたたれ)を着ていますが、素襖(すおう)と呼ばれる直垂の中でも簡素で古様なものを着しています。光秀は没した時は50歳を越していたと思われますが、この肖像画は若々しい容貌であり、また深く沈思する像主は秀麗で理知的といわれます。
光秀は、信長の家臣として、朝廷・将軍家などとの調停役、丹波平定などを行なった戦略家、丹波を支配した統治者など、様々な分野で活躍しました。 本徳寺(ほんとくじ)は、明智光秀の子南国梵珪(なんごくぼんけ)が建立したと伝える臨済宗寺院です。