明智光秀と亀岡

丹波進攻

明智光秀の丹波侵攻図
明智光秀の丹波侵攻図(『新修亀岡市史』本文編第2巻より)

天文23年(1554)、三好長慶の家臣、松永長頼が、丹波守護代を続ける内藤氏を継いで、八木城(京都府南丹市)に入城します。永禄8年(1565)8月、氷上郡黒井(兵庫県丹波市)の荻野直正が、松永長頼を敗死させたのを契機に、荻野・波多野・須知氏らが、三好の勢力を一掃します。この頃の、丹波在地の武士たちは、織田信長と友好関係にありました。

元亀4年(1573)4月の信長による足利義昭の追放と室町幕府の滅亡をきっかけに、丹波の武士たちは、反信長派に変化しました。天正3年(1575)秋から、八上城(兵庫県篠山市)の波多野氏の協力を得て、黒井城の荻野直正を攻撃していた光秀ら織田軍は、天正4年1月、突如波多野氏の裏切りにあい、総退却を余儀なくされました。
天正5年秋には、中断していた丹波進攻が再開されます。在地の武士たちのしたたかさに、光秀も苦戦しますが、天正6年3月、黒井城の荻野直正が病死し、流れが変わります。

天正7年(1579)6月、八上城(兵庫県篠山市)が長い兵糧攻めの末に開城し、城主波多野秀治らは安土城へ送られ、極刑にされました。最後まで抵抗した赤井忠家らの籠る黒井城(兵庫県丹波市)も、8月に陥落しました。

天正8年(1580)、信長は、丹波を光秀に与えます。「天下の面目をほどこし候」と言われた光秀は、まさに絶頂の時を迎えます。

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