明智光秀と亀岡

光秀ゆかりの地

八木城跡(京都府南丹市)

八木城跡(京都府南丹市)

丹波守護代内藤氏の居城であった八木城は、丹波国内では、八上城・黒井城と並ぶ三大城郭のひとつといわれています。本丸跡からは、亀山城跡も老ノ坂峠も見えます。ふもとには、キリシタン大名としてしられる内藤ジョアンを追悼する石碑が建立されています。

八上城跡(兵庫県篠山市)

八上城跡(兵庫県篠山市)

高城山の八上城を中心に、東西3キロにも及ぶ大規模な中世山城です。波多野氏滅亡後、光秀や前田玄以らがここを拠点として多紀郡を領有しますが、江戸時代になると慶長14年(1609)の篠山城築城により、八上城は廃絶になりました。

黒井城跡(兵庫県丹波市)

黒井城跡(兵庫県丹波市)

黒井の街並みのすぐ北側にそびえる猪ノ口山にある山城。山のいたるところで、曲輪跡や土塁、堀切などの遺構を見ることができます。ふもとにある興禅寺は、堀で囲まれ、城館であった雰囲気が残っています。丹波をおさえた光秀は、重臣齋藤利光に黒井城を任せます。この城館で、利光の娘「お福」が生まれたといわれています。後の三代将軍徳川家光の乳母、春日の局です。

亀山城跡(亀岡市)

亀山城跡(亀岡市)

天正3年(1575)、丹波平定を開始した明智光秀は、前線基地として亀山城を築城しました。光秀滅亡後も、歴代の城主による城郭の整備を経て、慶長15年(1610)、天下普請により、丹波亀山城に層塔型の五重の天守が築かれました。

明治2年(1869)、伊勢亀山と丹波亀山の地名がまぎらわしいとして、丹波亀山は、亀岡と名称を改めます。その後、明治6年(1873)のいわゆる廃城令の後、明治10年(1877)には、天守解体となります。

現在、天守など城の姿は残っておりませんが、宗教法人大本の管理地として見学が可能であり、堀跡は、南郷公園として親しまれています。

谷性寺<こくしょうじ>(亀岡市宮前町猪倉)

谷性寺<こくしょうじ>

光秀ゆかりの桔梗の寺としても知られています。

境内にある首塚は、安政2年(1855)に、「栄」という人物が、供養のために「光秀公首塚」の碑を建てたといわれています。

同じく境内にある「明智山門」の上部(蟇股)には、桔梗の紋が刻まれています。この門は、元は城下の柳町にあった西願寺の山門で、亀山城内にあったとされる「明智門」とは異なります。昭和51年(1976)に、光秀の縁で谷性寺に移築されました。

「明智山門」の上部(蟇股)

明智越<あけちごえ>(亀岡市保津町)

明智越<あけちごえ>(亀岡市保津町)

亀岡市保津町から京都市右京区水尾に至る、保津川左岸の尾根沿の山道です。亀岡から愛宕山へ登るルートのひとつです。本能寺へ向う時にこの道を通ったという説もありますが、一般的には、愛宕山へ参詣するために光秀が通ったことから、この名が付いたと考えられています。

明智の戻り岩(亀岡市曽我部町法貴)

明智の戻り岩(亀岡市曽我部町法貴)

曽我部町法貴の集落から西別院町へ至る国道423号のすぐ脇の川沿いに旧道があります。旧道は途中で国道と合流しますが、この合流点から少し下がった所に、道をふさぐように大きな岩があり、屏風岩とも明智の戻り岩とも呼ばれています。

戻り岩の由来として、光秀が、秀吉の援軍として西国に向かう途中、ここから本能寺へ引き返したという話が有名ですが、元来は、この峠の先にある笑路城を攻撃した際に、この岩のために攻めきれず引き返したという話から、この名が付いたと考えられています。

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