明智光秀と亀岡

本能寺の変

本能寺前後の光秀(『新修亀岡市史』本文編第2巻より)
本能寺前後の光秀(『新修亀岡市史』本文編第2巻より)

天正10年5月27日、光秀は亀山城から、現在「明智越」と呼ばれる山道をとおり、京都を見下ろせる愛宕山に登ります。主君信長から中国出陣の命を受けた光秀が参籠したのは、愛宕神社の本地仏で軍神と信仰を集めた勝軍地蔵です。光秀は、社前で何度もくじを引いたとされます。翌5月28日に催した連歌会での光秀の発句が、「時は今あめが下しる五月哉」です。

天正10年(1582)6月2日未明、光秀は、京都・本能寺に宿泊していた信長を、急襲しました。「本能寺の変」です。

なぜ、光秀が信長を討ったのか、その動機の真相は、明らかではありません。当時は、従来の権力・権威を否定する「下剋上」の時代でした。光秀も、その渦中にあり、一人の戦国武将として、主君信長への忠誠と反感の狭間に苦しみ、悩んだのではないかと思われます。

いずれにしても、本能寺の変は、天下統一という巨大な歴史の歯車の動きと連動し、その後の日本史に多大な影響を与えた最大で最後の「下剋上」であったといえます。

さて、亀山城から本能寺へはどの道をとおったのか。通常、亀山から京都へ向かう道は、老ノ坂峠を越える道〔老ノ坂ルート〕が一般的ですが、外にも、いわゆる明智越を通って水尾へ抜ける〔明智越ルート〕道や、桂川右岸の尾根筋をとって桂へ抜ける〔唐櫃越ルート〕などがあります。江戸時代に書かれた『信長公記』や『川角太閤記』などは、光秀は老ノ坂を通って本能寺へ向かったとしていますが、『明智軍記』には、光秀軍は三隊にわかれて進軍したと記されています。これらのルートを地図上でたどるのは難しいのですが、書かれている地名を並べると次のようになります。

資料名(作者) 作者 行程
信長公記 (太田牛一) 江戸時代初期 老の山⇒追分⇒桂川⇒本能寺
川角太閤記(川角三郎右衛門) 江戸時代初期 柴野(篠)⇒老の坂⇒谷の堂・峯の堂⇒沓掛⇒桂川⇒本能寺
豊鑑(竹中重門) 寛永8年(1631) 大江の坂⇒本能寺
明智軍記(不明) 江戸時代中期(元禄頃)  ⇒保津⇒水尾⇒嵯峨野⇒衣笠山麓地蔵院
能条(野条)⇒大江坂⇒桂 ⇒本能寺
 ⇒王子⇒唐櫃越⇒松尾ノ山田村⇒本陣

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