明智光秀 波乱万丈の生涯
西暦(和暦) <推定年齢> |
光秀の動向 | 光秀を取り巻く情勢 |
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1556(弘治2) | 斉藤義龍に叔父光安が敗れると、明智城を出て諸国遍歴、のちに越前朝倉氏のもとで知行地を拝領する(『明智軍記』) | 4月 斉藤道三没 |
1557(弘治3) | 諸国遍歴に出る | 11月 信長、清州城にて弟信勝を誘殺 |
1560(永禄3) 35歳 |
5月 桶狭間の戦い。今川義元没(42歳) | |
1562(永禄5) 36歳 |
諸国遍歴より越前に帰る(『明智軍記』) | |
1563(永禄6) 37歳 |
朝倉義景の所望により鉄砲の演習を行い、鉄砲寄席子100人を預かる(『明智軍記』) | 信長、本拠を小牧へ移す |
1565(永禄8) 38歳 |
小瘡を患い加賀山城で湯治。その後美濃に帰国、織田信長に仕える(『明智軍記』) | 5月 三好義継・松永久秀、足利義輝(30)を集殺 |
1566(永禄9) 39歳 |
岐阜城へ到着。信長から美濃安八郡4500貫の地を拝領(『明智軍記』) | |
1567(永禄10) 40歳 |
2月 北伊勢平定に出陣(『明智軍記』) | 9月 信長、斉藤龍興を攻め破り、稲葉山に移る |
1568(永禄11) 41歳 |
7月 信長と将軍義昭との間を仲介(『細川家記』) 8月 近江観音寺城攻めの後詰めを命じられる(『明智軍記』) |
9月 将軍義栄没(29) 10月 足利義昭、将軍に就任 |
1569(永禄12) 42歳 |
正月 三好三人衆が京都本圀寺の義昭を攻囲。細川藤孝らとともに六条で防戦する(『信長公記』)。信長から二条城普請を命じられる 8月 伊勢国司北畠具教が籠る大河内城攻めのため津城へ入る(『明智軍記』) |
8月 信長、伊勢の北畠氏討伐を開始 10月 北畠具教降伏 |
1570(元亀元) 43歳 |
正月 信長が義昭の実権を奪う五ヶ条の条書を認証させた際の証人となる 4月 朝倉討伐に参陣。金ヶ崎退き口の殿をつとめる 9月 村井貞勝らとともに上洛、二条城にて残番(『言継卿記』) この年、長男(十五郎)生まれる(フロイス『日本史』より推定) |
4月 改元 6月 姉川の戦い 9月 石山本願寺挙兵、顕如諸国に檄を発する |
1571(元亀2) 44歳 |
7月近江宇佐山の志賀城に在城(『兼見卿記』) 9月 比叡山焼き打ちの後、信長より近江志賀郡を与えられる(『信長公記』) 義昭に致仕を願い出る(『神田孝平氏所蔵文書』) |
5月 一向一揆討伐のため長島に出兵 9月 比叡山焼き打ち |
1572(元亀3) 45歳 |
閏正月 坂本の築城中に吉田兼見の訪問を受ける(『兼見卿記』) 7月 信長に従って浅井長政と戦う(『信長公記』) |
9月 信長、十七ヶ条の異見書を義昭に提出 12月 三方ヶ原の戦い |
1573(天正元) 46歳 |
2月 今堅田の本願寺勢を攻撃、志賀郡過半を平定(『信長公記』) 5月 今堅田の戦死者を弔う供養米を西教寺に寄進(『西教寺文書』) 7月 信長に従い、義昭を山城横島城に攻める(『明智軍記』) 7月 木戸・田中両城を信長より与えられる(『信長公記』) 10月 山本対馬守を謀殺(『信長公記』) |
7月 信長、槇島城の義昭を破り、義昭退隠 7月 改元 8月 信長、朝倉義景(41)、浅井長政(29)を滅ぼす 9月 秀吉、浅井氏の旧領を与えられる |
1574(天正2) 47歳 |
正月 信長、光秀の子十二郎(定頼)を筒井順慶の養子とするよう命ず(『細川家記』) 9月 佐久間信盛らと河内に出兵、本願寺衆徒を下す(『明智軍記』) |
3月 秀吉、長浜城に入城 9月 信長、長島の一向一揆平定 |
1575(天正3) 48歳 |
正月 丹波平定を命じられる(『明智軍記』) 2月 亀山に入城、福井氏、宇津氏を攻撃する(『明智軍記』) 7月 信長の奏請により「惟任」の名字と「日向守」を与えられる(『信長公記』) 8月 信長の越前出陣に従い、一向宗門徒を攻撃(『信長公記』) 9月 丹波出陣を命じられる(『信長公記』) 11月 丹波黒井城を攻囲する(『吉川家文書』) |
5月 長篠の戦い 8月 信長、越前一向一揆を制圧 11月 信長、家督と尾張・美濃を信忠に譲る |
1576(天正4) 49歳 |
正月 黒井城攻略中、波多野秀治の謀叛により敗走(『兼見卿記』) 2月 丹波に再出陣(『兼見卿記』) 5月 石山本願寺攻めの陣中で病にかかり帰京(『兼見卿記』) |
正月 信長、安土築城に着手 2月 信長、安土城に移る 4月 信長、顕如を石山本願寺に攻める 6月 信長、病の光秀を見舞う |
1577(天正5) 50歳 |
2~3月 信長の紀伊出陣に従軍。雑賀衆鈴木孫一の居城を包囲(『信長公記』) 10月 信忠に従い大和信貴山城を攻め、松永久秀父子を自害させる(『信長公記』) |
6月 信長、安土城下に条規を定め、楽市とする |
1578(天正6) 51歳 |
5月 明石に出兵。二日後には書写山に陣を張る(『竹内文平氏所蔵文書) 8月 娘の玉(ガラシャ)、細川忠興に興入れ(『細川家記』) 11月 摂津有岡城に荒木村重を攻撃(『増訂織田信長文書の研究) |
3月 上杉謙信没(49) 10月 荒木村重、反旗を翻す |
1579(天正7) 52歳 |
2月 丹波攻めのため亀山に出陣(『兼見卿記) 6月 丹波八上城の波多野秀治兄弟を降伏させる(『信長公記』) 7月 丹波宇津氏を討ち取る 8月 丹波黒井城の赤井忠家を下す(『信長公記』) 10月 丹波・丹後を平定の後、安土にて信長に礼をする(『信長公記』) |
5月 安土城で日連・浄土両宗が宗論(安土宗論) |
1580(天正8) 53歳 |
2月 天寧寺(福知山)に対し、陣取、竹木伐採免除などの特権を安堵する(『天寧寺文書』) 閏3月 坂本城を修築(『兼見卿記) 6月 城郭破壊命令に背いた丹波土豪和久左衛門大夫を成敗する(『御霊神社文書』) 8月 信長から丹波を領国として与えられる |
閏3月 信長と本願寺顕如との和議成立 8月 信長、佐久間信盛父子、林秀貞らを追放 11月 柴田勝家、加賀一向一揆を制圧 |
1581(天正9) 54歳 |
2月 信長の馬揃えをとりしきる(『信長公記』) 6月 家中軍法十八ヶ条を定める(『御霊神社文書』『尊経閣文庫文書』) 8月光秀の妹(妻木某の妻)死去(『多聞院日記』) |
2月 信長、京都で馬揃えを行う 10月 秀吉、因幡鳥取城を陥す |
1582(天正10) 55歳 |
3月5日 信長の甲州出陣に従う(『兼見卿記』) 5月14日 家康の安土来訪時の饗応役を命じられる(『兼見卿記』) 5月27日 愛宕山に参詣しくじを引く。翌日百韻連歌を興行し、亀山に出陣(『信長公記』) 6月2日 早朝、本能寺の信長を急襲後、信忠を二条御所に囲み、ともに自害させる 6月4日 近江を平定し、翌日安土に入城する(『兼見脚記』) 6月13日 光秀、山崎にて秀吉に惨敗。同日夜小栗栖にて土民に襲われ横死 |
3月 武田勝頼自刃(37)、武田氏滅びる 5月 信長、光秀に中国出陣を命じる 6月 2日 本能寺の変 6月13日 山崎の戦い |
参考文献=『明智光秀のすべて』(二木謙一編)/『明智城と明智光秀』(可児市観光協会)他